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M-1決勝進出「たくろう」きむらバンドの“前コンビ”時代― 1年ちょっとだけ存在した「バンドワゴン」という助走

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こんにちは、あゆりんです。

M-1グランプリ2025の決勝メンバーに名前を連ねたお笑いコンビ「たくろう」。

決勝進出を機に一気に注目度が上がっていますが、その片割れ・きむらバンドには、実はほとんど語られていない“前コンビ時代”があるのを知ってましたか?

そのコンビ名が―「バンドワゴン」

活動期間は、たったの「約1年ちょっと」。

でもちゃんと吉本のプロとして活動して、M-1にも出て、R-1にも名前を残して、そして静かに解散していきました。

この記事では、

  • 公開されているインタビューや公式サイトの情報をもとにした事実部分
  • そこから私なりに「こういう時期だったんじゃないかな」と感じる推測・考察部分

を分けながら、“謎の1年間・バンドワゴン時代” をがっつり掘り下げてみます。

少しでも興味がある方は、ぜひ、最後までお付き合いください。

目次

きむらバンドのルーツ:愛媛の田舎からバンドマンへ

まずは、きむらバンド本人の“スタート地点”から。

鬼北町のど田舎で育った少年

きむらバンド(本名:木村太一)は、愛媛県出身

幼少期は、愛媛県鬼北町という“ガチ田舎”で育ちます。

月刊芸人のインタビューでは、

  • 同級生が10人くらいしかいない小学校
  • コンビニもほとんどないような環境

だったと話しています。

その後、小学校高学年〜中学生くらいのタイミングで、より街側の松山市へ引っ越し

ここから、いわゆる“地方都市の少年”としての生活が始まります。

松山中央高校で「サディスティック・ジョーカー」結成

高校は、愛媛県立松山中央高校

ここで彼は、「サディスティック・ジョーカー」というバンドを組み、ベース担当になります。

月刊芸人のインタビューでは、

  • 高校はヤンキーほぼゼロの進学校
  • 部活には入らず、放課後はひたすら楽器
  • 「俺はみんなと違う」「俺はすごい」と、かなりこじらせた自己愛を持っていた

と、わりと赤裸々に話しています。

この“こじらせ自意識+バンドマン+しゃべりたがり”のコンボ、今の芸人きむらバンドの「原液」そのものですよね。

バンドのMCをしゃべりすぎて…まさかの“クビ”

さらに面白いのがここ。

同じインタビューの中で、

  • サディスティック・ジョーカー時代、ライブのMCに命をかけすぎていた
  • ベースなのに、MCをほぼ自分の時間にしてしまっていた
  • 結果として、バンドメンバーから事実上「クビ」の形になった

というエピソードが出てきます。

これは私の感想ですが、「ベーシストのくせにMCを一番やりたがってクビになる」って、もはや“芸人になるべくしてなった人”の履歴書ですよね…。

NSC大阪36期へ:コンビ解散→ピン芸人「木村太一」

高校卒業後、きむらバンドは吉本の学校ことNSC大阪校・36期生として入学します。

NSC在学中は別のコンビ→卒業と同時に解散

「マンゲキサインヒストリー」のインタビューや、いくつかのまとめ記事によれば、

  • NSC在学中は、別の相方とコンビを組んでいた
  • しかし、NSC卒業と同時に解散

という流れだったことがわかります。

卒業後はピン芸人「木村太一」として活動

解散後、きむらは一度ピン芸人として活動します。

このときの芸名(というか本名)はそのまま「木村太一」。

よしもと漫才劇場のライブ「煌〜kirameki〜Lesson」などに、ピンで出演していたと本人が話しています。

ただ、このピン時代はそこまで長く続かず、後に“きむらバンド”という芸名が誕生します。

芸名「きむらバンド」はチェリー大作戦・宗安が命名

芸名の名付け親は、先輩芸人のチェリー大作戦・宗安

NSC卒業後もいろいろなライブに出ていたきむらに対し、宗安が

「木村って名前多いから、芸名つけたら?」

と提案。

そこから、

「もともとバンドやってたし、“きむらバンド”でええんちゃう?」

というノリで今の芸名が誕生した、とnoteのインタビューで語られています。

このあたりで

  • バンドマンの過去
  • 木村拓哉への強すぎる愛(ラジオを聴き込むレベル)

など、現在の“きむらバンド像”がじわじわ固まり始めます。

「バンドワゴン」結成:2014年6月、最初の本格コンビ

さて、ここからが今回の主役、「バンドワゴン」時代です。

2014年6月1日、相方・杉本修平と「バンドワゴン」結成

M-1グランプリ公式サイトのコンビ情報やWikipediaによると、

  • きむらバンドは、2014年6月1日から2015年9月まで、杉本修平(現・カンタービレ)とコンビ「バンドワゴン」として活動していました。

バンドワゴンの相方・杉本修平は、その後「カンタービレ」という別コンビで活動していることも確認できます。

つまり、

NSCコンビ解散 → ピン芸人 → 杉本との「バンドワゴン」結成

という流れですね。

活動期間は「約1年ちょっと」

活動期間については、Wikipediaに

「2014年6月から2015年9月まで『バンドワゴン』として活動」

と明記されていますし、

さらに、きむらバンド本人のX(旧Twitter)で2015年9月23日に解散報告をしている投稿が残っています。

「この度僕たちバンドワゴンは解散する事になりました…」

という、かなりはっきりした文面です。

なので、

  • 結成:2014年6月1日ごろ
  • 解散:2015年9月23日発表

ということで、「約1年3〜4ヶ月くらいのコンビ」 だったことがわかります。

「動きたっぷりスポーティー漫才」を名乗っていた

バンドワゴンは、よしもと漫才劇場のお披露目公演などにも出演していました。

当時のYouTube説明文や告知には、

「動きたっぷりスポーティー漫才観てください!」

というコメントが残っています。

※ここからは“軽い推測”ですが、この自己紹介フレーズから考えると、今の「たくろう」のじわじわ世界観漫才よりも、もっと体を大きく使った“王道の動き多め漫才”寄りだった可能性が高そうです。
実際のネタ映像はあまり残っていないので、「スポーティー寄りを志向していた」くらいで止めておくのがフェアかなと思います。

ピンでも「バンドワゴン木村」としてR-1に挑戦

面白いのは、コンビ活動と並行して、きむらバンドがピンでも動き続けていたところ。

R-1ぐらんぷり2015に「バンドワゴン木村」名義で出場

R-1ぐらんぷり2015の出場者リストには、「バンドワゴン木村(バンドワゴン)」という名前がきっちり残っています。

つまり、

  • コンビとしては「バンドワゴン」
  • ピン芸人としては「バンドワゴン木村」

という二刀流状態だったわけですね。

ここは完全に私の感想ですが、「コンビ名を背負ったままR-1に出る」というのは、いい意味で“がっつり目立ちたい人”の動きです。
ベースでも前に出るし、コンビでも前に出るし、ピンでも前に出る。
この“前のめり感”が、そのまま今のツッコミの熱量に繋がってる気がします。

なぜ「バンドワゴン」は1年で解散したのか?(※ここは考察ゾーン)

ここは重要なのでハッキリ言うと、解散理由を本人たちが詳しく語った公式ソースは、現時点では見当たりません。

なのでこの章は、

  • 「活動期間」
  • 「その後すぐに別コンビ結成へ進んでいること」

といった客観情報からの、あくまで考察・推測として読んでください。

事実としてわかっていること

  1. 活動期間は2014年6月〜2015年9月ごろまで(約1年ちょい)
  2. 2015年9月23日にきむらバンドがXで解散報告
  3. その直後から、赤木とのライブ出演が告知されている(「ソロデビュー」発言もしつつ)
  4. きむらバンドはその後、「相方どうしよ」という時期に、先輩・宗安&ねんどから赤木を紹介されている

ここから考えると、

  • 「大きな不祥事」みたいなものではなく
  • 方向性や将来像の違い、あるいは
  • 「もっと自分の武器を活かせる相方を探したい」

といった、芸人あるあるな理由での解散だった可能性が高そうです。

私なりの推測①:スタイルの“しっくりこなさ”説

先ほどの

  • 「動きたっぷりスポーティー漫才」というセルフイメージ
  • のちの「たくろう」の芸風が、赤木の挙動不審なボケ × きむらバンドの“否定しないツッコミ”というかなり独特なスタイル

というギャップを見ていると、

「自分は“ガンガン動くコンビ”より、‘ヤバい相方’を活かす側に回った方が光るのでは?」

と、きむら本人が徐々に感じ始めていた可能性はあると思います。

もちろんこれは本人の言葉ではなく、スタイル変化を見ての推測です。

私なりの推測②:“何年も続けた末の解散”になる前に見切りをつけた説

芸人の解散話をいろいろ聞くと、

  • 「10年近く続けてからの解散」よりも
  • 「1〜2年やって、早めに“違うな”と判断して解散」

というパターンのほうが、むしろ前向きなケースも多い印象です。

バンドワゴンも、

  • 1年以上はちゃんと活動してみた
  • でも「この先ずっとこのコンビでやっていくイメージ」がぼやけた

…くらいのタイミングだったのかもしれません。

ここもあくまで「芸人あるある」と照らし合わせた推測ですが、そのあとすぐに赤木との出会いへ繋がっていく流れを見ると、「バンドワゴンを早めに終わらせたからこそ、たくろうに間に合った」という見方もできるな、と個人的に感じています。

「たくろう」への橋渡しとしてのバンドワゴン

では、バンドワゴン解散のあと、どうやって「たくろう」に繋がっていくのか。

NSCの授業アシスタントをしながら“相方どうしよ”期へ

Wikipediaやインタビューによると、きむらバンドはNSC卒業後、37期生の授業アシスタント(授業補助アルバイト)を務めていたのだとか。

この37期にいたのが、のちの相方・赤木裕です。

バンドワゴン解散後、きむらは

「相方どうしよ、みたいな時期に…」

先輩の宗安(チェリー大作戦)から、

「赤木っていう、余ってるけどめっちゃおもろいのがおる」

という話を聞きます。

さらに、相方のねんどからも

「めっちゃおもろいっすよ」

と勧められ、ほぼ顔も知らないまま連絡先を交換。

心斎橋で初めて顔を合わせることになります。

初対面で“ほぼ一目惚れ”→2016年「たくろう」結成

その初対面について、きむらはインタビューで

「正直その時点で一目惚れ。『なんやアイツ! こんなん絶対おもろいやん』と思った」

と話しています。

一方の赤木も、

  • その時点でコンビを解散してピンで活動していたが
  • 「もうピンは嫌だ、誰が来てもコンビを組もう」と心に決めていた

と語っています。

こうして、2016年3月9日、「たくろう」結成。

※ここで私が強く感じるのは、「バンドワゴン」という1年ちょっとの経験があったからこそ、きむらバンドの中に、「今度はこういう相方と組みたい」「こういうバランスで漫才したい」という軸が育っていたんじゃないかな、ということです。
これは完全に私の考察ですが、あの短いコンビ経験は、今の“たくろう感”を作るための助走そのものに見えます。

まとめ

「1年で終わったコンビ」が物語を分厚くしてくれる

事実だけを並べると、

  • 鬼北町で育ち、松山中央高校でバンドにのめり込み、
  • 大学・バンドを経て、NSC大阪36期に入り、
  • 在学コンビ→解散→ピン芸人→バンドワゴン→解散→たくろう結成→M-1決勝進出(2025)

という流れになります。

中でも、この

「バンドワゴン」という1年ちょっとのコンビ時代

は、ネット上では

  • 「結成と解散の年月日」
  • 「相方の名前」
  • 「スポーティー漫才という自己紹介」

くらいしか情報がありません。

でも、その少ない情報を、他のインタビューや時系列と組み合わせて眺めてみると、ここがめちゃくちゃ“人間くさい章”なんですよね。

  • バンドも一度クビになって
  • NSCコンビも終わって
  • ピンも一度やって
  • やっと掴んだプロコンビ「バンドワゴン」も1年で解散して
  • それでも漫才を諦めず、相方を探し続けて
  • 赤木という“余ってるけどめちゃおもろいやつ”に賭けて
  • 10年近く劇場で戦い続けて
  • 2025年、ようやくM-1決勝の舞台へ

…と考えると、「バンドワゴン時代」は失敗の1年じゃなくて、“たくろう”という物語を分厚くしてくれている1章なんだろうな、と思います。

M-1決勝当日、テレビでたくろうを見て

「このツッコミの人、なんか“やたらと人生の酸いも甘いも知ってそうな顔”してない?」

と思ったら、その裏には

  • ベーシスト時代にMCやりすぎてクビ
  • NSCコンビ解散
  • ピン芸人
  • バンドワゴン
  • そして、たくろう

という何段もの試行錯誤の積み重ねがある、と思い出してもらえると嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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